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   大正の時代
     亡母の女学生生活(1)
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投稿者 スレッド
マーチャン
投稿日時: 2005-5-8 15:50
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
亡母の女学生生活(1)
 さいわい、私の場合
 ・末っ子で両親と年齢が大きく離れていたこと
 ・長く同居していたこと
 ・写真や、日記、文集などの記録物が、よく保存されており ・しかも、2人とも話好きで、子供のころのことをよく話してくれたこと
 もあり、両親の若いころのことについて、比較的詳細な伝聞を書くことができます。

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 そこで、まず「亡母の女学生生活」から書きます。

 母は、兵庫県北部の寒村《かんそん=貧しい村》に、1905年3月に生まれました。
 母の生家は、小作人《こさくにん=地主から土地を借りて農業を営む人》を持ち、戸主が村長を勤めていました。ですから比較的ゆとりのある暮らしをしていました。
 また、大勢の兄弟の末っ子として可愛がられて育ちました。

 村の小学校卒業時に、父親から県立の女学校へ進学するようにいわれたとき、女学校が何であるかさえも、よく知らなかったそうです。周囲に女学生や、女学校卒業生がいなかったので無理もないのです。

 入学試験の口頭試問(面接試験)で、受験の動機を聞かれ「親が行けといいましたから」と答えたそうです。

 当時は、各県とも中等教育機関は非常に少なく、兵庫県下にも、県立の旧制中学校(男子のみ)、女学校とも、数校しかなく、とくに県北部では、豊岡中学校と、豊岡高等女学校しかありませんでした。そのため同級生のなかには、鳥取県から来ている人もいました。

 また、母の小学校から進学した人は、全校で、中学が1人、女学校が1人ーーーという状況でした。

 生徒はすべて寄宿舎生活をしていました。
 (通学圏が非常に広く、しかも、交通機関が発達していませんから、どっちみち、ほとんどの生徒が自宅通学はできなかったのです)

 土曜日から日曜日にかけては、自宅に戻っていたようです。

 下の写真は、母の入学時の写真です。
 小柄で早生まれの母には、まだ幼さが残っています。



マーチャン
投稿日時: 2005-5-10 20:33
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
亡母の女学生生活(2)
教科と先生

 この時期は、高等女学校は四年制でした。
 低学年では、英語、数学、国文学などの一般科目が多かったのですが、高学年になるにつれ、裁縫・作法などの女性向きの科目の比重が増えたそうです。
 国文学では、太平記の暗誦を。よほど徹底的にやらされたらしく母は90才近くなっても、まだ覚えていました。

 先生は大変厳しい方が多かったよし---下の写真を見ても想像できますね。

 制服は着物に袴でしたが、体操の時間だけは、洋風の体操服に義経袴《よしつねばかま=源義経が陣中で用いた袴。腰と裾に紐を通して絞った》だった。
 体操の時間は、体育ダンスをやりました。「空も港も夜は晴れて」などという歌に合わせてダンスをするのです。

 当時「女学生が校庭で女だてらに男装まがいの姿でダンスをする」というのはニュースでした。
 中学生(旧制中学は男子のみ)が、垣根越しに校庭を覗《のぞ》きこんで「ネコのちょっかい」などといってからかったそうで
す。その都度、先生や用務員さんが追い払うのだそうですが、すぐまた覗きにきたそうです。

マーチャン
投稿日時: 2005-5-25 8:23
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
亡母の女学生生活(3)
亡母の女学生生活(3)

 母が、繰り返し語ってくれたのは「修学旅行」に関することでした。
 よほど、印象に残っていたらしく、細かいことまでよく記憶していました。

 大正時代の、地方の女学生にとって「修学旅行」は大変な行事でした。
 女性は「物見遊山《ものみゆさん=観光の旅》旅行」のたぐいは一生できなかった時代でしたから。

 兵庫県北部の学校ですから行き先は、毎年「京阪神と伊勢」に決まっていたそうです。
 ところが、その年に限って「出雲大社方面」を強く推薦された先生があったーーー
 「みなさんは、いずれ京阪神へ行く機会はあります。でも、島根・山口方面なんて多分一生いけませんよ」と。
 でも、このご意見はとり上げられず、例年通り「京阪神」に決まったよし。

 母は、伊勢神宮については「参拝当日、大雨で草履《ぞうり》も足袋《たび》もびちょびちょになり難儀した」こと、京都御所の紫宸殿《ししんでん=御所の正殿。即位などに使用》については「なんだか、だだっぴろいところ」程度の印象しか持っていなかったようでした。

 印象に残っていたのは、大阪で、百貨店へいったこと。
 ーーー実は、前夜宿泊した旅館で用意したお弁当が悪くなっていたーーーそのため、急遽、先生方が協議し、直ちにそのお弁当を捨てるように指示した。そして昼食を百貨店の食堂でとることにした。一番安いウドンのたぐいだったそうですが、生徒たちは「都会のデパートで食事をする体験」ができて、かえって喜んでいたそうです。

 でも、一番印象が深かったのは、神戸だったようです。
 県庁所在地であり、港町である神戸は、大正の女学生のあこがれの街だったのです。
 なかでも、オリエンタル・ホテルを見学する機会に恵まれ、バンド演奏に接したことが一番の思い出だったとたびたび話していました。

マーチャン
投稿日時: 2005-5-25 8:52
登録日: 2003-12-31
居住地: 宇宙
投稿: 358
亡母の女学生生活(4)

 修学旅行で都会の空気に触れて刺激をうけたせいでしょうか。
 卒業アルバムに登場するクラスメイトは、すっかり「大正モダン」の雰囲気ですね。

 なお、これらの写真はまったく補正していません。
 当時の地方の町の写真屋さんの技術が、なかなか優れていたことを物語っているのではないでしょうか。

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