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   実録・個人の昭和史I(戦前・戦中・戦後直後)
     心のふるさと・村松 第三集
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編集者
投稿日時: 2015-11-11 6:57
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 10

 ところで、後述しますように、現在村松碑には八百十二柱の御霊が合祀されていますが、でも、これは戦没された方々でも、平成十三年の段階で、氏名、所属、戦没した年月日、地点等が確認出来た方に限られており、甚だ不本意ですが、今となってはこれを確かめる途は総て閉ざされているというのが実情です。
 この点、東京校の尾崎健一氏は、その「少年兵の戦争体験」の中で、「奇跡的に日本の土を踏むことが出来た生還者は自分を含めて十八名程で、他に台湾で下船して勤務した数名がいる」と記していますが、それでは村松校の場合は如何であったのか、繰上げ卒業し出陣した三百十五名のうち、秋津丸と摩耶山丸で遭難した者が百十六名であることは先刻明らかになっていますが、残りの百九十九名の消息はその後如何なっているのか等々。これについて、佐藤嘉道氏は、先般来、長期に亘って東京校の分も含め精力的.に関係者への照会を繰り返してきましたが、今回漸くその全容が明らかになったので次に記載します。


三百十五名の敢闘と生還者数

            十二期  佐藤 裏道

 私は本誌の前号に「村松少通校十一期繰上げ卒業生について」と題して、「繰上げ卒業生は三百四十七名だったが、特殊情報要員として陸軍中野学校に派遣された者を除き、実際に南方戦線に向かった者は三百十五名であった」と前置きして、門司港から出航した直後、輸送船(秋津丸及び摩耶山丸)上で遭難した者と、神州丸に乗船していて辛うじてルソン島に辿り着いた者の戦闘の経緯を明らかにすると共に、この結果、生きて再び祖国の土を踏めた者が四十一名であったと報告しました。

 しかし、生還者の数については、その時点で十名の不明者が含まれていて、私としてはこの事が気懸りで更に調査の網を広げでおりましたところ、昨年十一月に至ってふとした関係で「ルソン島生還者名簿」なるものを入手することが出来、六名の方の生還を確認することに成功しました。
 これでも、なお、四名の方の消息が不明ですが、現時点では、これ以上の調査は殆ど不可能のように思われますので、繰上げ卒業生三百十五名を、中隊ごとに、地域別に分け戦没者と生還者を表にしたものが下表で、これによりますと、三百十五名中、戦没者二百六十四名、生還者四十七名、未確認四名となります。

 ただ、比処でご留意頂きたいのは、この表では生還者を、「生還者」と「復員者」に区別している事で、これはルソン島や沖縄本島では熾烈な戦闘が行われましたが、沖縄の宮古島と台湾では敵機による空襲等はありましたものの、格別な戦闘行為に晒されることはなかった事を示しています。
 従って、言い換えれば、繰上げ卒業していった三百十五名中、戦って戦死し、再び祖国の土を踏めた者は(「復員者」十三名を除いた)三十四名に過ぎなかった(生還率十一%)とも言える訳で、輸送船上での遭難はもとよりルソン島や沖縄本島での戦闘が如何に苛酷なものであったかが窺える結果になっています。


村松校繰上げ卒業生中隊別一覧表

編集者
投稿日時: 2015-11-12 8:07
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 11

少通と、忘れ得ぬ思い出

           十三期  鈴 木 嶺 志

 私は静岡県浜松市にて生を受けましたが、父の転勤に伴い小学校は泰天で中学校は旅順で過ごし中学二年終丁と共に十三期生として入校致しました。
 終戦後は家族と全く音信不通となり復員する事も出来ず止むを得ず村松陸軍病院に収容され翌二十一年春まで、唯一人だけ村松の地に留まりました。
 それにしても、朝の起床ラッパから夜の消灯ラッパまで私の人生の中で、あの頃程、真剣に且つ体力の続く限りの毎日を送った経験はありません。それが又、戦後の苦しさを堪える事が出来たバックボーンであったのは間違いありません。

 特に印象に残る事は亀田小学校への野外訓練の時です。S班長殿の計いで私は先発隊として機材と共にトラックにて出発……。一区隊の面々は行軍となり、その上亀田到着直前に例の“駆け足に前へ″の号令が、かかったとか全員可成りこたえた様子でしたが、最後の気力を振りしぼって、お互いに助け合い乍ら一団となって現れ、その姿を見た私は何故か目頭が熱くなったものです。このままでは特に申し訳ないと思い私は当日の深夜の不寝番を買って出て立哨中、突如運動場の方で異様な掛声……何事かと駆けつけた所、月光に輝くグランドに十数名の女子生徒が裏白な鉢巻きも凛々しく女の先生の指導に従い裂帛の気合の下、薙刀の訓練を受けておりました。その気迫の余りの凄さに暫し茫然としていましたら先生を始め女子生徒全員が私に向かって最敬礼……。“軍務ご苦労様です。私達も頑張りますから、どうぞ祖国を守って下さい”と真剣な眼差しで挨拶され私は、万感胸に迫り只“ハイ”と云って直立不動の姿勢を取り立ちつくすしかありませんでした。忘れられない想い出です。

 所で日々の生活にも漸く馴れて来た頃、三種混合の予防注射を全員医務室で受けましたが、私は完全発熱。練兵休を三日ばかり許されましたが、熱がどうして下がらず、それ以来体調をスッカリくずしてしまい楽しみにしていた遊泳演習の直前、入院を余儀なくされ従って終戦の詔書は病院で聞きました。

 これから我々はどうなるんだろうと、一時病室が騒然となった時もありましたか、各自復員と云う報せが入り続々と病院を去って行き、結局私一人がポッンと取り残されてしまったわけです。そんな時、韓国出身の生徒十数名が帰国を待つ為、一時集結した事があり私も是非このグループに参加させて欲しいとW病院長に申し出たのですが〝お前は日本人でもあるし混乱している大陸へ戻るのは無謀だ、家族は必ず日本に還っで来るから”と諭され止むを得ず諦めましたが、あの時の孤独感と悲しさ無念さは生涯忘れる事が出来ません。
 その中、幸運な事に名古屋の師団司令部にいた従兄弟が復員業務に従事しており、たまたま私の名前を見つけ出し、戦災で家は焼けてしまいバラック住いだが、とにかく大阪に戻り、中学に復学する様にと勧められ意を決して村松を後にしたのは終戦翌年の三月でした。そして大阪での一年を経て、翌二十二年三月、旅順を追われ大連から浜松へ全財産を失い乞食同然の姿で引揚げて来た家族と漸く再会を果す事が出来ましたが、結局、父はシベリヤ抑留の上、戦病死、祖父、祖母、姉、妹の五人を失ってしまった我が家でしたが、母を中心に姉、弟、妹と共に苦難の道を辿る出発点となったわけです。
 それにしても多くの人々に助けられて、なんとか人並みの生活が出来る様になった私は幸せ者だったと痛感しておるこの頃です。
編集者
投稿日時: 2015-11-13 6:48
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 12

(付録)

 終戦直後の村松 (米軍の進駐と町民たち)

 女性通訳が綴る当時の村松

 終戦直後の昭和二十年九月、村松少通校の武装解除を目的に米軍の一個連隊が進駐してきました。其処で当時の町民がこれを如何受け止めたか、これは私共としても極めて関心のあったところですが、偶々、福岡在住の元十二期生・柿野哲之助氏から、これらの状況を記した後藤優女史の著書「新潟県中蒲原郡村松町 昭和二十年、秋」を送って頂きましたので、その一部を再録してみました。

(一)、悪い知らせ

 村松の町は新潟県のほぼ中央に位置した静かな町で、昔は城下町であったため、人びとの気風もおだやかで住みよい所であったが、戦争の激化とともに都市からの疎開者で人口も増加し、以前は数千であったのが当時は一万を超えるかなり大きな町となっていた。しかし町の大通りといえば、駅前を横に走る一本きり、端から端まで歩いても二十分とはかからなかった。

 この静かな町の人びとにとっては東京は遠い所であった。まして外国などは想像もつかず、アメリカ人がどんな顔をして、どんな様子であるか考えてみたこともなかった。ある日、近所の親しくなったお婆さんが、二歳の健の絵本に西洋人が描かれているのを見て「へえー、西洋人って、本当にこんな青い眼をして高い鼻をしているんですかねえ!」と感嘆ひとしきり、子供がその絵本をとり返すまで、しげしげと見入っていたことがあった。こういう素朴な人びとであったから、九月に入ってしばらくして、この町に進駐軍が入って来るという発表があった時に、町中が右往左往、パニック状態におち入ったこともうなづけよう。この町のはずれに陸軍の通信学校があって、その施設を米軍が利用するということであった。

 町の隣組ではそれぞれ緊急集会が開かれ、不安な面持ちで集った人びとは、何年ぶりかで黒布の蔽いをはずされて眩しいほど明るい電灯の下で、隣組長の読み上げる次のような通達に真剣な表情で耳を傾けたのである。

(一) 進駐軍が入って来る日は、通りの店はすべて表戸を閉ざさなければならない。外出は控えて、米兵を挑発しないように、窓や戸の隙間から覗き見することは厳禁である。
(二) 夜の間は戸外の電灯を明るく灯し、厳重に戸締りをして、明かりを暗くした室内で静かにしていること。
(三) 貴重な物品は、町から遠く離れた安全な場所に預けること。
(四)一人で家にいる時にもし米兵が入って来たりしたら、バケツでも金だらいでも、何でも大きな音のする物を叩いて隣近所に知らせ、できるだけ大勢の人に集まってもらうこと。
(五) もしも襲われたら、ボタンでも何でも、あとから証拠になるような物をもぎ取るようにすること。
(六) 米兵を怒らせないように。子供たちにはおとなしく行儀よくするように言いきかせておくこと。
(七) 女は全員もんぺを常用すること。裸足を見せないよう足袋もちゃんと履いて、米兵らが近くにいる時は、赤ん坊に乳を飲ませないよう気をつけること。

 それは九月ももう半ばに近い頃であった.何となく不安な、落ちつかない空気のところへ、最近東京へ行ってきたという町の者たちが、さまざまな噂を持って帰ってきた。東京では若い娘たちはみんな、米兵に強姦されるのを恐れて、山の方に避難させられているというのだ。まさか、と私は一言のもとにそれを打ち消したのだったが、あとで聞いたところでは、男性がいないで三人の娘を抱えた主人の叔母の一家は、娘の一人が海軍省に勤めていたおかげて、海軍のトラックで山村に難をさけたということだった(そして一週間ほど経て大丈夫らしいということで帰ってみると、大きな家財道具がごっそり空巣にやられていた、ということだった)。

 村松へ来る米軍部隊はニューヨーク師団に属する連隊で軍紀の厳しいことで有名だ、などと人びとを安心させることに努めた結果、一座もようやく愁眉を開き、終りには 「もし接吻なんかされそうになったら、身を守るのに一番よい方法は、あの突き出た鼻に噛みついてやることだね」「何を抜かす、誰がお前のような婆さんに目をつけるかよ」などという冗談の応酬で散会となった。

 町や村の人びとの心配をよそに町の当局者たちは、米軍の駐留を迎える準備に忙殺されていた。村松に来るのは連隊本部と第一、第二大隊で、総数は約一万五千名という話であった。(実際は二千名であった)。少年通信学校の校舎は宿舎用に改修され、警察署の建物も増築され、町の通りにはそこここに新しい街燈が設置されて町の人びとを安心させた。これなら米兵も夜、暗い中で悪いことはできないだろう。
編集者
投稿日時: 2015-11-14 6:33
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 13

(二)、初めて見るアメリカ人

 蒲原鉄道会社の事務所に私が初出勤したのは、一九四五年の九月二十六日、よく晴れた暑い日の朝だった。
 さて、私たちの雇用主である蒲原鉄道会社は小さな私鉄で、新潟の中蒲原郡の五泉から終点の加茂まで田畑の間を縫って一時間に二本の電車を走らせていた。

 始発駅から終点まで約一時間、乗客のほとんどはお百姓かそのおかみさん、村松の学校に通う中学生たちといった風で、その人たちのしゃべっている言葉は、疎開者の私にはなかなか聞きとれなかった。車窓から眺める景色は、ことにこの秋の頃は、美しかった。冬は雪に閉ざされるこの地方も秋は晴れた日が続いて、黄金色に続く稲田の彼方には青い山々が峰を連ねて、人びとを晴ればれとした気持にさせた。
 この会社の本社事務所は村松駅の二階にあった。駅舎に入るとすぐ右手に二階へ通じる階段がドアにかくされてあり、階段を上ると右手の二部屋が社長と専務理事の個室で、左手の大きな部屋には数人の男女職員が机を並べていた。社長は村松町長でもある町田氏で、見たところ、四十七、八歳、背も高くなかなかハンサムであった。社長の町田氏が町長としての職務にほぼかかりきりなので、鉄道の方のことはほとんど専務の久野氏が一手に引き受けている様子だった。

 歴史始まって以来初めてこの町に来るアメリカ兵たちが乗った列車は、午後一時五泉駅到着のはずだということで、改孔口前のちょっとした広場には人びとがいっぱい集っていた。町の男や女たち、それに少年少女たちも大勢いた。プラットホームには町のお偉方が並んでいた。町長、警察署長、駅長、それに町の有力者ら数人であったが、彼らが緊張の極にあることは一目瞭然であった。久野氏は派手な青い格子縞の背広をきて、絶えず落ち着かない様子でネクタイに手をやっていた。私も平静であったとはいえない。集った群衆の好奇の目が私たちに集中しているのが感じられたし、第一、四年間のブランクの後で英語がすらすら出て来るかどうか心許なかった。

 息づまるような数分の沈黙ののち汽車が姿を現した。真黒い煙を吐きながら次第に近付いてくる。
 一〇〇メートル、五〇メートル、十メートル、五メートル……。
 機関車が目の前を通り過ぎた、と思ったとたん、ガタンと音を立てて私たちの真前に一台の貨車が止り、その開け放した戸口から、カーキ色の略装を着た金髪の、青い眼をした三人の若者がつぎつぎに跳び出して来た。
 私は彼らに話しかけた。「ハウ・ドゥ・ユウ・ドゥ…あなた方のお名前と階級と年と司令官の名を知りたいのですが…」
 鸞きと喜びの混った表情で、三人の若者たちは同時にしゃべり始めた。「ぼくたちは…」
 三人の中で一番年上に見える一人が言葉を続けた。
 「ぼくはチャールズ・ジョンソン。伍長で二十五歳。こちらはリチャード・グレイ、十九歳とアラン・ハワード、十八歳です。二人とも二等兵です」
 「指揮官の名前は?」
 「フロスト中佐」
 「でも、ここには見えていませんね」
 「いません。三条の町で 見失ってしまった」
と言いながら三人はクツクツ笑った。何か謎めいたことがあるらしい。
 グレイ二等兵は私にチューインガムを差し出した。
 「ここはムラマツですか」
 「いいえ、村松は次の駅です。ここは五泉で、ここで私鉄に乗換えるのです」
 ジョンソン、グレイと私たちが話をしている間に、一番若いハワード二等兵は、腕を上に伸ばしたり、横に伸ばしたりしながらプラットホームを行ったり来たりし始めた。それは全く自然で自由な動作であった。三人とも、百人を越える群衆の好奇な目にさらされているというような意識は全くなく、つい一月前まで敵国民であった日本人にとり囲まれているという不安や怖れは露ほどもなかった。憎しみも、軽蔑も、彼らの表情には少しもあらわれていなかった。三人のアメリカ兵たちは、まるで故国にいるように落ち着きはらって、思いのままにふるまっているのだった。

 その時、突然、一人の男、日本人が貨車の奥の方から姿をあらわした。その中年男は、皺だらけのシャツを着て、汚れた下駄をはいていた.口をモグモグさせながら、手には食べかけのクッキーを持って……。それを見た私は急に恥ずかしく不愉快になった。私は彼の姿に敗戦国民を見たのだった。聞けば横浜から同行してきた通訳ということだった。これから、もしかしたら、こういうような男が巾をきかすのかもしれない。英語が少しばかりしゃべれて、日本人であることに全く誇りを持たない男たちが………。私は悲しくなった。私たちは間違った方向に導かれ、いま敗戦という未曾有の事態に直面している。しかし私は、同胞である日本人への信頼感と将来への希望は持ち続けていたのだった。

 それと同時に私は、私たちが物を食べながら街を歩くアメリカ人を見ても別に何とも思わないのに、日本人が、男でも女でも大人が、口を動かしながら街を歩いているのを見ると、とたんに軽蔑の念が生じてくるのは一体どういうわけだろうとふしぎに思った。どうしてなんだろう。それに馴れていないからかもしれない。しかしこの疑問はいまだに解けないでいる。
 そうこうしている間に、この貨物列車は国鉄の線路から私鉄である蒲原鉄道の線路に移動させられていた。そして私たち一同はゾロゾロと、村松行きの二輌連結のディーゼルカーに乗り込んだ。
編集者
投稿日時: 2015-11-15 6:51
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
心のふるさと・村松 第三集 14

(三)、ショッピング (互いに知り合う)

 こうして村松駅におけるRTO(鉄道輸送事務所)の第一日目が始まったのである。でも、三人とも何もすることがなくて時間を持てあましている様子だ。そして私たちが家へ帰ると聞くと、遠慮勝ちに、一緒に行ってもいいかときく。ちょっと散歩したいし、買物もあるというのだ。
 「どうぞ」
と私たちは答え、そこで私たちは一緒に町に出た。
 駅は村松の町の一方の端にあって、その前を一本の道路が町の中央を横切って伸びていた、その半分ほどの所で、道は二股に分かれ、その一方が通信学校に通じていた。田舎町にはめずらしくちゃんと舗装された広い道で、二ケ月ほど前にはその通りを通信学校の生徒たちが毎日のように行進していた。汗を流し、ほこりにまみれ、軍歌を歌いながら…‥。

 私たちはゆっくりと歩いた。町の人びとは目を丸くして私たちを見送った。家の奥から駆けだして来て眺める者もあった。予供たちは慎重に、適当な距離を保ちながら後について来た。三人のアメリカ青年たちは、もの珍しそうにあたりを見回しながら歩いた。冬には雪が軒にまで達するために人びとの行き来する歩道には雪除けの屋根が設けられている。そして軽い板でできたその屋根は、板が風で飛んでいかないようにいくつも石が載っている。そういう家々の造りやもんぺをはいた女たち、背中に赤ちゃんをおんぶした母親たち。
 アメリカ人たちは好奇心にあふれていた。

 私たちは通りの店を一軒一軒のぞきこみながら歩いた。それでもそんなに時間がかからないほどの店の数であった。ある一軒の小間物屋の旅先でジョンソンがピタリと足をとめた。棚に小さな鏡がおいてあったのである。それを買いたいという。あとの二人も同様であった。そして彼らがついでに買ったのは、おどろいたことに小さな日の丸の旗だった。
 「それをどうなさるんですか」
と私はきいてみた。
 「ただスーべニアですよ」
と三人は答えた。
 ジョンソンの買った小さな鏡の裏には赤い布が張ってあった。彼は鏡に顔をうつしながら、はにかんだ表情で「モンキー!」と言った。いかにも、もしジョンソンは何に似ているかときかれたら、私はためらうことなく「モンキー」と言ったかもしれない。彼自身もそう思っていたのだから。しかしそれは立派な顔だった。誠意があって信頼感を起こさせる。ゲルマン系の面立ちで、年若のハワードもその系統だった。グレイの方は明らかにフランス系であった。

 私たちはやがて町長の立派な屋敷を過ぎ、郵便局、銀行を通り過ぎた所に理髪店があった。「ああ、早速ここへ来なくちや」と三人は呟いた。
 私たちは広い通りの終った所で別れを告げた。私は彼らに、間違っても迷子になる気遣いはないから大丈夫、と保証した。
 「あんな若い、感じのいい青年たちを真先に寄越すなんて、アメリカ軍もよく考えているわね。きっと町の人たちにいい印象を与えるわ」
 私たちの予想した通り、“村松駅の三人のアメリカ兵” はまもなく町の人気者になった。特に最初から最後まで駅の貨車にとどまったジョンソンは、村松に滞在したアメリカ兵たちの中で最もよく知られ、最も好意を持たれた “名士” になった。

 その中にこの北国の小さな町の人びとは、今までかって味わったことのない異国の味を賞味するようになった。アメリカ煙草とチョコレートである “キャンデイ” と総称されるチョコレートと煙草を米兵たちが取り引きに使うようになったのだ。それは当り前だ、と彼らは言った。スーベニアを買って帰りたいのに、彼らの部隊はあっちこっちとあまり頻繁に移動させられてきたので、給料が追いついて来ないのだ。小遣い銭がなければ床屋にも行けない、と殊にキャンプの外で生活しているRTOの三人は深刻だった。
 そうしている間も三人-ジョンソン、グレイ、ハワードーは自分たちの仕事を大いにエンジョイしていた。
 ひとつには彼らは自由だった。外出にも通行許可証はいらないし、三人の中で一人が持ち場を守っていさえすればいつでもどこへでも好きな時に外出ができた。
 飲み物も豊富だった。久野氏と町田氏がいつもビールと酒を差入れてくれた。
 それに駅にはきれいな若い女子職員が大勢いて、いつでも気楽に日本語の練習の相手をしてくれた。
 「軍隊生活がこんななら、いつまで軍にいてもいいんだがなあ」と彼らは異口同音だった。

 (注)本稿に載せた三人は、皆より一足先に派遣された米兵です。遅れて到着したペイン大佐を連隊長とする本隊二千名は、同年十二月まで村松に駐留していました。
 なお、私共旧少通生としては、自分達が終戦によって故郷に復員して行ったあとの村松がどのような形で進駐軍を迎え入れたかは、大変気懸りになっていたのですが、この後藤女史の本によって、仮令、それが一人の通訳の職務を通じて感じた受け止め方だったとしても、総じて終始極めて友好裡に進められたことが読み取れ、安堵しました。
 そして、これも堀氏三万石の城下町として、また、半世紀に亘る軍都としての歴史を持つ村松であればこそ出来た対応であろうと、改めて感慨を新たにした次第です。
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