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   実録・個人の昭和史II(戦後復興期から高度経済成長期)
     団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどってNo.1幼年時代‐昭和20年代
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投稿者 スレッド
sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-9 20:06
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどってNo.1幼年時代‐昭和20年代
 高度成長期と言えば、通常、昭和29年から昭和48年までを指す。

 私の生まれは、昭和24年だから、昭和29年までの5年間のことは良く覚えていない。(愛知県稲沢市生まれ)

 只、小学校に上がる前の年、”小鳩保育園”の何かの行事で、壇上に昇って皆さんの前で、挨拶をしたことと、その前に、本当は、ウンチが漏れそうなのに、生来、小心者の私は、それが言い出せず、壇上に上がってしまい、不思議と気持ちは上がらなかったけど、コロコロウンチを漏らしてしまったことは、良く覚えている。

 小学校に入ったのが、昭和の30年、時はもう成長期の入口だった。
 車が珍しくて、親戚の大工の叔父さんの小型トラックの後ろに、兄貴と二人がカバーの中に隠れて、砂利道を、名古屋まで
乗せてもらったことを、懐かしく思い出す。

 当時は、オートバイが主流で、まだ自動車は、珍しかった。私が生まれた年に、世に出たのが、ダイハツのミゼット三輪自動車で、10歳(1954年)の時に出たのが、4輪トラックのトヨエースだった。

                          (写真は「愛媛県歴史民俗博物館学芸員ブログ」より転載)
編集者
投稿日時: 2013-2-14 7:50
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.2 昭和30年代

 昭和戦後史の教科書によれば、1950年代に朝鮮動乱の特需に沸いた日本は、経済は確実に右肩上がりに転じ、1956年(昭和31年):私が小学校の2年生の時:経済白書では「もはや戦後ではない」と明記され、世は神武景気の時代に突入していた。

 とはいっても、未だ庶民の生活は貧しく、一般家庭ではその日暮らしと言ってもよい生活が普通だった。私の家も、戦前こそ、父が
農家の次男坊として独立し、苗木販売業で築いた財産も、戦後の
ハイパーインフレと、過失による火事で、あらかた失って、元の
水飲み百姓に逆戻り。

 小学校の4年生の頃からか、家計を助けるために、朝夕、新聞配達を手伝うようになった。このころから家計に、いくばくかの現金が必要になったような時代への変化を感じた。今までの農村経済からだんだん都市経済に移行しつつあったのだ。

 当時の思い出として忘れられないのは、尾張地方に紡績工場があちこちに進出してきた。大和紡績や、尾西毛織・・・など。工場に併設して其の社宅が有るのだが、工場長・幹部社員の社宅は一般社員のそれより随分、広い敷地に立派な家が建っているなと、新聞を配りながら、それらを、まぶしく眺めたものだった。

(タカのブログより新聞少年のイラストをお借りしました)

編集者
投稿日時: 2013-2-14 7:58
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.3 白黒テレビの登場

 先般、NHKテレビでテレビ放送開始(1953年:昭和28年)60周年記念番組が放映されたのを、懐かしい想いで観賞された方は多いと思う。

 50年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」として喧伝された。これら3品目は、新しい時代の象徴であり、努力すれば、手の届く夢の商品だった。とりわけ、白黒テレビにはいろいろな思い出がよみがえって来る。

 テレビが発売開始の頃は、当時テレビを買えるのは、村でも一番のお大侭に限られ、大人も子供も夕刻になると、その家敷の、座敷に上げてもらい、みんなで相撲放送を楽しませてもらった記憶がある。

 その10年の内外には、大半の家庭にテレビが普及し始めた。といっても、 貧乏な我が家にテレビが届いたのは、小学校6年の頃だった。それまでなんとか、うちでもテレビが買ってもらえないものかと夢にまで見た。(夢の中に出てきたテレビは、仏壇の中に納まる小さなテレビ:当時はトランジスタ・テレビなどなかったが、それほどに欲しかったのだろう夢のテレビが!)

 当時のテレビの人気番組は、なんと言ってもプロレスだった。力道山と外人レスラーとの迫力ある決闘シーンに、街頭テレビの前で、国民がかたずを飲んで見守り、空手チョップで勝負を決める力道山に、皆が溜飲を下げ、興奮したものだった。

(写真は、tempest丸さんの「なにこれ珍満景」HPより、作者のご了解を得て画像をお借りしました。)

編集者
投稿日時: 2013-2-14 8:00
登録日: 2004-2-3
居住地: メロウ倶楽部
投稿: 4289
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.4 白黒テレビの普及

 暫くテレビの話を続けよう。テレビの登場はひとつの文化革命と言ってよいだろう。「百聞は一見に如かず」と言うが
見ると聞くとでは、普通、やはり見た方が現実をよく確認できる。高度成長期は、言い換えれば映像文化の到来の時代でもあったのだ。

 それまで、ニュースは、新聞・ラジオで見聞していたものが、目に見える、臨場感のあるニュースがお茶の間で見られるようになったのだ。画期的なマス・メディアが登場したわけだ。

 テレビの登場により社会の娯楽の範囲も広がりを見せたが、それはもっと後のことで、最初はなんといっても、新聞よりもスピード感のあるニュースの世界でのテレビの活躍だった。

 1959年(昭和34年)には、皇太子殿下(今の天皇陛下)の御成婚がテレビで放映され、美智子妃殿下のお美しさに「ミッチー・ブーム」旋風が巻き起こった。
 それほどに、テレビは社会に変化をもたらしたわけだ。

 (皇太子・美智子妃殿下ご成婚の記念切手の画像は郵趣サービス社HPより借用しました【印刷しないでください】)

sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-14 10:50
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.5日米宇宙中継とケネディー暗殺事件
テレビニュースの速報性という点で今でも鮮やかに記憶しているのは、ケネディー大統領の暗殺事件の映像だった。
1963年(昭和38年)の11月の日米初のテレビによる宇宙中継の初映像が、なんと「ケネディー大統領がテキサス州ダラスで銃に打たれて死亡したと」いう衝撃的なニュースだった。

丁度、その日は日本では11/23の勤労感謝の休日で、みんながそのニュースに食い入るようにテレビにかじりついていたことを、いまでも思い出す。


「日本放送発達技術小史」によれば、テレビはその前年(1962年:昭和37年)にNHK総合テレビが全日放送となり、受信者は、1000万人の大台に乗ったとのこと。さらに付け加えれば同年のテレビの受信者数は、ラジオのそれを上回り、51%:31%となった。
(画像は、Wikipedhiaより転載しました)
sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-17 12:25
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.6東京オリンピックとカラーテレビ
白黒テレビの普及の次は、テレビのカラー化だった。


カラーテレビの普及の契機は、なんといっても、やはり1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックだった。


いまでも、記憶に残るのは、開会式の最後に登場した日本選手団のブレザーのスカーレット(緋色)とズボンの純白との色鮮やかな
コントラストだった。(それは、まさに、日の丸選手団の登場だった!)
もちろん、このテレビの映像は、自宅で見たものではなく、街頭か
どこかの電器店で目にしたものだったと思う。


カラー放送といっても当時は、全面放送ではなく、オリンピックの閉会式は確か、白黒。カラーで放送された競技種目もごく一部の競技にかぎられていた。
もちろん、あの「東洋の魔女」の名で、世界に名を覇した、
バレーボール競技の金メダル獲得の映像は、モノクロだった。


カラーテレビの普及といっても、当初はやはり、白黒テレビに比べ
かなり価格が高いため、ごく少数の富裕層に限られたものだった。それでも、高度成長期の波に乗って、1970年代には日本のすべての家庭のテレビが、カラー化された。
ちなみに、NHK総合テレビの全面カラー化は、
1971年(昭和46年):私が大学を卒業し、サラリーマンとなった年なので、よく覚えている。       (画像は「昭和毎日・昭和のニュース」からお借りしました)
sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-18 20:59
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.7電気洗濯機の普及
「三種の神器」のテレビの次は、洗濯機。


洗濯機が普及するまでは、洗濯というと、たらいに水を張って
洗濯板と石鹸でごしごしこすり、たらいの水で何度もすすぐという
作業の繰り返し。家事労働の中でも、時間と手間のかかる相当な重労働だった。冬の寒い時、庭の井戸汲みポンプの横でかがんで一生懸命、洗濯をしている母親の後ろ姿を、今でも想い出す。



洗濯機の登場で、長時間の重労働から解放され、洗濯機が回っている間にも他の家事に時間を割くことができるようになった。家事の効率化という面では、女性にとっては、洗濯機はテレビ以上のありがたい存在だったといえる。

電気洗濯機が一般家庭に普及するのは、昭和30年代の後半から40年代にかけてであった。わが家では経済事情で、汲み上げポンプの井戸水から水道水に切り替えるのに時間がかかり、洗濯機が入ったのは、確か、高校1年生(1965年:昭和40年)の時だった記憶がある。


sumidagawa60
投稿日時: 2013-2-22 22:56
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.8電気冷蔵庫の普及


三種の神器(家電製品)の最後は、電気冷蔵庫。


電気冷蔵庫が、一般家庭に普及するのには、時間がかかった。
「家電の昭和史」によれば、普及率50%に達したのが、1965年(昭和40年)、私の高校1年生のときだった。この年は、「テケ・テケ・テケ・・・・・」で一世を風靡したエレキブームの始まりの年だった。ファッションでは、アイービー・ルック。


勿論、うちでは、まだとても電気冷蔵庫なんて買える経済的余裕がなかった。でも、冷蔵庫、そう氷式冷蔵庫が、父が何年か前にどこかで中古品をもらってきたものがあったのだ。箱形冷蔵庫とも言って、一番上の棚に、町の氷屋さんで買ってきた氷を乗せておくと、
一日はその氷が溶けるまで、結構、下まで冷やしてくれるのだった。


私は、電気冷蔵庫よりも、この氷式冷蔵庫にいろんな思い出があり、そのイメージを捜してネット検索をしたら、なんと2004年に
メロウ伝承館で「ザックス」さんが「昭和初期の氷式冷蔵庫」の投稿をされてるのが見つかったので、さっそく転載をさせていただいた次第である。


sumidagawa60
投稿日時: 2013-3-3 23:57
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.9再び昭和30年代‐裁縫箱の憶い出
話の展開が、途中から昭和の”三種の神器”の話題に夢中になってしまって、時代が前後してしまった。


この辺でもう一度時計の針を巻き戻して、再度、私の小学生時代(昭和30年から昭和35年)についての思い出を語ることにしよう。


小学校低学年時代のことで、今でも忘れられないのは、裁縫箱のこと。2年か3年の時、担任の先生が、今度の家庭科の授業までに裁縫箱を用意してくださいとおっしゃった。母親に話したら、さっそく用意してくれたのは、自分がイメージしてたものとは違って、”おふくろの手作り”の紙製のものだった。「こんなのじゃ、いやだ」と駄々をこねて、母親を困らせ、やっとのことで買ってもらったのが、写真にあるセルロイド製の裁縫箱だった。

        (「昭和日常博物館」の写真を転載)



セルロイドとは、今でいうプラスチックのような合成樹脂で、当時の子供にとっては、紙や布とは違う何か、文化的な香りのするものだった。まだ、玩具には使われてなかった。


弁当箱だって、セルロイド製のものは、まだなくて、当時はアルマイト製(ブリキのようなもの)の日の丸弁当が、普通だった。それを新聞紙にくるんでカバンの中に入れて、学校に持って行き、冬になると、ストーブで温めてもらった。その匂いが教室のなかに漂っていた。


本当は、小学校の低学年時代の思い出として、ランドセルのことを書きたかったのだが、私としては、ランドセルを背負った記憶がない。ランドセルの普及は、昭和30年代からというのが定説だが、地域によって早い、遅いがあったようだ。


sumidagawa60
投稿日時: 2013-3-18 0:58
登録日: 2008-4-29
居住地: 埼玉県羽生市
投稿: 57
団塊の世代が語る高度成長期―記憶をたどって:No.10再び昭和30年代‐プレハブ校舎と学校給食
団塊の世代(昭和22年~24年生まれ)は、いつの時代も生存競争がついて回る。宿命なのだと思っている。


小学校時代は、仮設プレハブ校舎、体育館もまだなかった。一クラス55人学級、一学年で10クラス以上があたりまえ。(ちなみに現在の状況を確認すると、一学年3クラス、30人学級が普通とのこと。この一年間の出生数は、120~130万人:私たちの頃は250万人もいたのだから)


私の小学校、稲沢西小学校で学校給食が始まったのは、確か4年生(昭和33年)の頃だった。給食当番の生徒が、それぞれ頭に三角頭巾をかぶって配膳係を務め、配り終わるのを待って、先生の号令一過みんなで一斉に、昼食をとった。残さず、というのも躾の内だった。


それでも、好き嫌いのある子は、結構、食べ残した。特に脱脂粉乳の匂いが苦手な子が多かったようだ。私は、生来好き嫌いがないというか、残すのがもったいなくて、なんでも食べた。その点では優等生だった。


メニューは、大体、コッペパンと脱脂粉乳(牛乳の代わり)に
メンチカツにキャベツを添えたもの、或いはナポリタンのスパゲッティー。カレーもよく出た。


下の写真は、(社)日本酪農乳業協会のHPから:
食器はアルマイト製のカップとスプーン。フライの
肉は、今では希少品となってしまった鯨肉の竜田揚げ、
当時は安価な蛋白源としてよく口にしたものだ。












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